令和4年10月1日午前9時半頃、何気に見た携帯から「アントニオ猪木逝去」の速報が飛び込んできました。享年79歳。我が心の師であるアントニオ猪木の逝去は、ショックと言うより「ついにこの日が来てしまったか」という気持ちです。アントニオ猪木の生き方は、自身のプロレス引退セレモニーで語った「迷わず行けよ、行けばわかるさ、ありがとう!」のとおりでした。ここでは、プロレスラーであり、実業家、政治家でもあった猪木の魅力について振り返ってみたいと思います。
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〈プロレスラー アントニオ猪木〉
猪木はプロレス最強ではなく、人類最強を目指しました。同時に八百長と揶揄されるプロレスに市民権を(一般紙にプロレスの試合結果を掲載したい)という想いが強く、それを現実させたのが、当時世界中の誰もがその権威を認めていたプロボクサー世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとの戦い(1976年6月、猪木33歳)です。その後も猪木は、極真空手や柔道等の様々な格闘技のチャンピオンと戦いますが、殺し合いではなく、お互いの競技のルールがある中での戦いは、玄人にしか理解できない戦いとなってしまいます。いずれにしてもこれらの戦いが、猪木の名を世界に知らしめたことは間違いないでしょう。
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〈実業家 アントニオ猪木〉
「アントン・ハイセル」、これは猪木信者なら誰もが知っている1980年に猪木が設立した悪名高き会社の名前です。猪木は第二の故郷ブラジルにおいて、サトウキビから砂糖を作る際に山のように発生する搾りカス(バガス)が深刻な公害問題になっていたことに着目し、バガスを石油に代わる燃料として有効利用する事業を立ち上げました。今では当たり前であるリサイクルやバイオテクノロジーにおけるベンチャービジネスです。しかしこの事業はあまりにも時期尚早だったため、結果数十億円の借金を背負うこととなります。借金には当時自らが社長だった新日本プロレスの収入の大半が補填され、これが仇となり新日本プロレスからは初代タイガーマスクや長州力などスター選手をはじめとした13名ものレスラーが大量離脱するクーデターが起きてしまいます。当時の猪木信者は皆、「猪木何してんねん」と呆れていました。その他にも環境問題等に関わる様々な事業を発案しますが、発想がぶっ飛び過ぎて誰も追いていけず、数十年後第三者によって成功するそれらの事業を目の当たりにして初めて、猪木が実現したかったことを知ることになります。ブラジルでは2005年(平成17年)以降、サトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業が見直され、現在も積極的に行われています。「人のため地球のために俺がやる」。これも猪木の大きな魅力のひとつです。
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〈政治家 アントニオ猪木〉
中東各国や北朝鮮、キューバなどの国では格闘技が絶対な人気を誇り、強いものが英雄という文化があります。モハメド・アリとの戦いで世界中にその名を知られたアントニオ猪木は、これらの国の要人からも一目を置かれる存在でした。
猪木は1989年7月の参議院議員選挙に当選し国会議員となります。1990年に中東ではイラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争に至る過程において日本人41人が人質として本国に連行されました。日本政府の人質解放交渉が難航する中で猪木は、単身イラクに乗り込みます。前述したように猪木はイラクの要人ともリスペクトされた状況で話ができます。ここで猪木は人質解放を直接訴えるのではなく、「平和の祭典」というコンサートやプロレス興行を提案し実現させます。これが功を奏し人質が解放され大きな話題となりました。北朝鮮の拉致問題解決も、私の中で猪木に期待するところは大きかったのですが、志半ばでの逝去は本当に残念です。
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政治家猪木の逸話について、昨年私の知人である弁護士のH先生から凄い話をお聞きしました。大学生だったH先生が、当時の竹下登元首相のお宅に居候されていた時のお話です。これだけでも凄い話ですが。
1991年に行われた東京都知事選において、当時3期務めていた現職の鈴木俊一氏や、元NHKアナウンサーの磯村尚徳氏が立候補を模索する中、猪木が名乗りを上げ世間を騒がせました。この状況下においてある日、当時学生だったH先生に竹下元首相が、「H君なら誰に投票する?」と聞かれ、H先生は「知名度で猪木ですかねぇ」と答えたそうです。するとその翌日に猪木が立候補を取り下げたのです。舞台裏の話として猪木は、当時自民党の重鎮である金丸信氏や小沢一郎氏らに説得されたとされていますが、その更に裏側では、有権者であるH先生の回答に危機感を感じた竹下元首相からの指示があったのかもしれません。
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我が心の師であるアントニオ猪木。その生きざまの断片は、これからも私の人生のバイブルとなるでしょう。
ありがとうアントニオ猪木。安らかにお眠りください。
